続・無理数
前回、無理数なんてあんのか?って書いた話の続き。
解析の本をみると、デデキント切断から<数>を創造することで、のっぺりとした無理数が自然に導入されることになるそうな。だけどなんというか、しょせん再定義した上の結果でしょ、と思ってしまうわけ。
さて、デデキント切断をもちだす前フリとして、Rudin "The Principles of Mathematical Analysis (International Series in Pure & Applied Mathematics)"では、次のような議論をしている。
Aをを満たす有理数pの集合、Bをを満たす有理数pの集合としたとき、Aには最大値となる数は存在しないし、Bには最小値が存在しない。
という定理(?)があって(証明略)、これは、
すべてのに対して[tex:p
とも言える。で、Rudinは、このことが有理数の体系にはギャップ(間隙)が存在していることを表している、って言ってるけど・・・・。ぼくは納得がいかない。これさえ納得できたら、デデキント切断以降の再定義も受けいれられるんだけども。
とはいえ、ってプラトニックにものごとを捉えて*1、新しい境地が開かれる(または、創造される?)というのが、数学・物理に見られる発展のパターンなんだよな。うーん。
*1:たとえばにも解があるはずだ!、っていうような
π、実在、そして祝電
πや√2などの、いわゆる「無理数」は果たして数なのか、はたまた、そんなもの存在するのか、についてずっと悩んでいる。
虚数i なんかは、別に許せる。だって複素数ってのは、とどのつまり、2つの数のセット(実数・虚数)で、数を扱ってみましょう、っていうことだから。整数しかなかった世界に、分数を導入してみるのとおなじことだ。
だけど、無理数は違う。たとえば√2は、2乗の逆(平方根)を全ての数に対して適用したい、っていう動機から持ちだされてきたものだ。で、分数では表現できないって、背理法から決まってしまった。だから仕方なしに、√2=1.41421356…とか書かれたりするし、どこまで数を続けても、√2にはならない、なんて言われる。
どこまで続けてもたどり着けないのに、どこに√2ってのがあるわけ?直角二等辺三角形を描いてみても、√2は出てこない。じゃあ、いったいどこにあるのか。
実は、頭の中にしかないじゃないのか。いいかえるなら、『実在』の世界にしかないんじゃないか。*1
ってことで、なんか無理数って、この詩と同じ構造を持ってるんだよな。
やまのあなたのそらとおく
「さいわい」すむとひとのいう。
ああ、われひとととめゆきて、
なみださしぐみ、かえりきぬ。
やまのあなたのそらとおく
「さいわい」すむとひとのいう
この詩の解釈として、よく、「幸せは、気が付かないだけで近くにあるんですよ〜」なんてことが語られたりする。無理数においても、「πって数は、数直線上でも数字列でも表すことはできないけれど、『そこ』にあるんですよ〜」って言われてる気がする。で、どこやねんっ、って突っ込みたくなるわけ。
そんな微妙な意味合いのうえで、ぼくはT君の結婚式の祝電に
Love is like π, it's mysterious, irrational, and very important.
なんて送ったのでした。「ボクハ ソノ ソンザイヲ シンジラレナイ」っていうニュアンス、伝わった人いなかっただろうなあ・・・。
*1:もちろん、『3』ってのがどこにあるのか?っていう議論によって、全ての数は概念にすぎない、って言ってしまえるけど、これは別のレベルの話ってことで。
ほかに読んだ本とか
『ライト、ついてますか―問題発見の人間学』。藤原博文さんが絶賛していたような気がする。(違うかも。)とりあえず、ずっと気になっていた本。
問題を見る視点と、そして問題自体が、くるくる変わっていくさまが楽しい。「問題とは何か」を考えなおす気にさせてくれる。
『星の玉子さま』やっと届いた〜。絵本だけに、絵を眺めて楽しむ本だね。なんだか文章は余計な感じがした。(無かったら無かったで不満をもらしてるだろうけどさ。)
ちなみに一輪車少年の星には、ぼくは引っかかりました。