続々・無理数

Hardy"A Course of Pure Mathematics (Cambridge Mathematical Library)"をゲットしたことだし、しつこく無理数について。
ちなみにこの本は、ラマヌジャンとの共同研究で有名なハーディによるもの。初版からもうすぐ100年経つのに普通に流通している(=読まれてる)のがすごい。Rudinより、ゆったりとしてる。定義・定理・証明スタイルじゃないし。

さて。

有理数のみで構成される体系(デデキントの切断が使われてない時点)で、無理数は必要とされるんだろうか。

全ての有理数が、つぎの2つの集合のどちらかに分類される、ってところから始めよう。

    • p^2<2であるpを要素とする集合L
    • q^2>2であるqを要素とする集合R

このとき、Lの全ての要素より大きく、またRの全てより小さい<数>が、あるんじゃないか、っていうのが、ハーディの言い分。数直線というメタファーのもとには、たしかに「あってもいい」かもしれない。

でも一方でこういうのはどうだろう。
このLとRの境目となる<数>を仮定して、それが有理数で表せると仮定すると矛盾がおこる。そこから、「p^2=2を満たす数は存在しない」と結論づけるのことはできないか。
または、その<数>と、どこまででも好きなだけ近い有理数を見つけることが可能だから、数直線モデルの破れはないって解釈できたりしないか。

p^2=2では、とどのつまり、正しい(論理的な)方向というのは決まってなくて、各々の信じる描像に沿ってどう決断するかということなんじゃないか。

たとえば整数だけしか知らない時に、わり算をして割り切れない数が出てきて、どうしたかっていうと、「割り切れない」としてみたり、「余り」を考えてみたりした。この考え方と、分数っていう新しい数の概念を導入することに、「正しさ」の違いはないはずだ。

おなじように、無理数という概念を持ち出してくることも必然じゃない、と思う。「無理数は、数直線上に『実は』埋まっていた」という考え方はおかしい、とも感じる。もちろん、無理数を持ち出すという方向性にケチを付ける気はない(つもり)なんだけど、それ以外に道はひらけているんじゃないか、と思うわけ。

ぶっちゃけて言うなら、地球外知的生命体が、同じ数学概念を共有しているとは限らないんじゃないか。素数を発信したりはしないんじゃないかな、と。