疑似科学、そして科学
疑似科学・トンデモ批判は楽しい。スカラー波がどうこうといっている変なひとを見つけては、みんなでバカにできる。みのもんた的語り口のエセ科学商売を見つけて憤慨してみたりもできる。*1
なぜ疑似科学なる理論・思考は批判されるのか。それは科学的方法・検証が欠けているのに、科学を装っているからだ。じゃあどうしてそれが悪いのか、またどうして彼らは科学を装うのか。
それは、科学(または科学的方法)が「正しい」から、なのかもしれない。だから、そこから外れた(よって「間違っている」?)ものに科学を名乗って欲しくはないし、また科学的という看板のもとには、人々はみな無条件に受けいれるから、それを騙ろうとする輩も出てくる、と。
……でもさ、ホントウに科学(的方法)って正しいの?
別にぼくは、科学を否定しようとしているワケじゃない*2。ただ、もうすこしきちんと考えてみたいだけ。
科学が尊重される理由として考えつくものは、主に2つ。ひとつは科学の恩恵にあずかった技術の存在。そしてもうひとつは、科学の論理の持つ説得力だ。前者は、理論と実験の整合性といいかえても良い。
これらに対して、おぼろげながら思うところはこんなかんじ。
ある操作の結果と、別の操作の結果との関連は確かに存在する。それは認める。でも、そうした関係を説明するストーリィとしての科学理論は絶対的なものなのだろうか。
・・・つづく。